初夏から夏にかけて、 飛びながら囀る声を聞く機会が多い、 小さな鳥。
囀りといっても、 ヒバリあたりで連想するような 抑揚がある連続した声ではないので、 “鳴きながら”と表した方が イメージに合うかもしれない。
とても小さい鳥なので、 広い範囲を飛び回っているところを写したのでは、 豆粒ほどにしか写らないタイミングすら少なくて 殆どが“砂粒”にしかならないので、 良い条件での 解像感がある飛翔姿は そう簡単には 写させてくれない印象が強い。

セッカの生息状況は 地域によって違うが、 ここでは、 近畿地方中部地域では、の話。
初夏の時期には、 『餌付け撮影会』『ヤラセ撮影会』をハシゴしている面々をはじめ、 多くの間で、 『△△<場所>に セッカが入った』とか、 その場所を列挙し合う会話が 飛び交いがち。
そして、 その場所を より多く列挙できることを、 『鳥に詳しい』と称して 得意満面に語り合われ、 称え合われがち。
でも・・・
わざわざ“鳥に詳しい”と自賛するほどではなくても、 鳥に関心を持っていて “ひと通りの知識ならある”程度(か、それ以上)の人なら、 そんな会話をするとは 考え難い。
わざわざ書くのも 可笑しい話だが、 この地域では、 セッカは“留鳥”。
つまり、 『△△に セッカが入った』という その場所には、 殆どの場合、 一年中 ずっといる。
これは、 鳥に関心を持って見ている人なら いちいち自慢するほどのことではない程度にすぎない知識があるか、 あるいは、 現に そこにいる鳥を見つけられるか、の、 どちらか 一方だけでもあれば わかること。
逆からは、 『△△に セッカが入った』をやってしまう面々は、 そのどちらもないから、 同類さん同士だけで 実際とは違うことを 語り合えてしまっているだけのこと。
そして、 『△△に セッカが入った』と列挙し合われる場所だけでなく、 もっと多くの ごく身近な あちこちにもいる。
これも、 声で気付き易い鳥すら 殆ど見つけられていないから、 多数が あちこちを動き回っていながらの情報を 全て持ち寄ってもなお ほんの一部しか知らないことに気付けずに、 勝手に 実際とは違う希少価値を創作して ありがたがって、 特別なことに『成功』していているつもりになって 自慢し合えていられるだけのこと。
鳥に関心を持って見ている人が、 「△△に ホオジロが入った」「△△に ムクドリが入った」と 言うだろうか?
それを 『鳥に詳しい』と称して 得意満面に 語り合い、 その情報力の優秀ぶりを 称え合ったり するだろうか?
世の中では ありがちながら、
「“その程度のこと”しか知らない(できない)ことを 得意げに ご自慢されても、 どう接してあげればよいのか...」
という状況に巻き込まれるのは、 まぁ 迷惑なこと。
先にも 可笑しい話と書いた通り、 鳥の話題で いちいち「セッカは“留鳥”」と教えてあげてしまうのは、 このレベルのお話。
そして、 『セッカが入った』は、
「たかが“その程度のこと”すらも知らないことを 得意げに ご自慢してしまわれても... ねぇ x x x」
というレベルの、 もっと困ってしまうお話。
更に、 自身で見つけたのですらもない、 あちこちで訊き回って 教えてもらったことを 列挙しているだけで、 私は『△△に セッカが入った』のを こんなに多く知っているのですよ、と ご自慢しているらしい言動となると・・・
更に 更に、 それが『鳥に詳しい』つもりの優越感での 馬鹿げたご指導の押し売りに ご熱心に纏わりついてきてしまうともなると・・・
観察でも 写真でも、 鳥関連での行動をしていても 『△△に セッカが入った』の面々とは 関わらないようにしている人は、 セッカがいる場所を知らないから 話題に加われないのではない。
全く 逆。
鳥に関して 少々の関心がある人なら、 (セッカだけでなく、 他の 様々な鳥でも、) 『△△に セッカが入った』という話を ご自慢し合っている『集い』の面々が 見えてしまって 語り合っている世界の『設定』とは全く違う、 とても多くの「事実」を知っているのが 当たり前のこと。
だからこそ、 リアル世界の実際とは 全く違う『設定』を語り合って 称え合うことが求められる、 お恥ずかしすぎて 見るに堪えない 馬鹿げた『ごっこ』は、 そっとスルーして 関わらないようにしているもの。
こういうことでも、 各地で無数にある 多数が群がっている『集い』の面々が、 (セッカの話題だけに限らない、あらゆる全てに、) リアル世界の実際とは 全く違う情景が見えてしまっていること、 そして、 周囲の 鳥に興味・関心がある人たちから 常に 完全に隔絶されて、 あらゆる一切が 何の関連もない 全く別の世界として存在している実態が わかるだろう。