
そして、 目視では 色が見えていても、 写真では 遥かに暗く写って 期待するような色が出ないことも多い。
目視でのイメージを表現するには、 要所になる色が上手く出てくれることが重要になる。



頭部の緑は出ても・・・
背景の水面に、 別の個体が通った時にできた航跡が残っている。
写真では、 こういう 薄い線だけでも 邪魔な物が構図内に写り込むと、 見難い画になってしまう。
こういうところは、 目視での観察でなら 周囲や背景は それほど気にならないことも多いのとは 事情が大きく違う要素。
個体数が少ないとか、 数は多くいても 動きがないと、 狙えるシーンが少ない。
逆に、 多数が活発に動いているのも、 重なったり、 水面が波立ったりで、 これも 良い条件が少なくなる。
写真狙いに都合が良いか悪いかは、 その時の巡り合わせ次第。
少し前にも書いた繰り返しながら、 写真は 視覚的なもの。
「○○が写っている」に当てはまりさえすれば 何でも同じではないのは、 簡単すぎて 当たり前すぎること。
周囲や背景も 重要な要素。
その程度さえわかるなら、 水鳥を“餌付け”に群がらせるのは、 自身が写す価値自体を失う自爆だと 容易にわかって当然。
しかも、 周囲の広域をも巻き添えにしてまで わざわざ自爆するのだから、 問題外の愚行。
でも、 そんな“餌付け”を、
「“優れた写真を撮れている人”でも やり方がわからないから出来なくて諦めているほどもの高度な技に『成功』している」
などと称する信仰がありがち。
そして、 その優越感に陶酔した妄想世界での自画自賛で
「高度な技で写したこの写真は、 “この写真より優れた写真”よりも優れていることを、 私は ちゃんとわかっている」
と、 全く矛盾して 実在し得ない設定を喧伝して、 同類さん同士だけで称え合っているもの。
これらは、 いわゆる健常者には、 “人”として接してあげようがない面々だと 容易にわかるから、 福祉的配慮で 触れ難い言動。
もちろん、 “餌付け”をしない撮影者は、 出来る知識や能力がないのではなく、 愚かな自爆はしないだけのこと。
これもまた、 何でもお幸せでいる面々が聞きつけると、 自身を祀り上げるにはご都合良く飛躍しすぎた滑稽な設定に化けて、
「私は鳥写真に詳しいから、 “餌付け”せずに写した写真は 全て優れた写真になることを、 ちゃんとわかっている」
と、 残念すぎるにも遠く及ばない写真で狂喜乱舞してご自慢し合う醜態で盛り上がってしまうのが定型だが・・・
平易な写真でも いつでも写せるのではないのに、 その可能性を わざわざ自ら破壊していては 何も得られようもない、という話。