すぐ近くにある世界

野鳥 , 昆虫 , 航空機 などの写真

都市部の近隣でも身近で見られる野鳥や昆虫など、
捏造(餌付け、ヤラセ、画像加工 etc...)の無い
「本当の世界」の写真を載せています。

NP

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ヒヨドリ飛翔|これ自体よりも 未来に...





少し前に ヒヨドリオオタカで書いたものの続きでもあるようなこと・・・

こういうスタイルで ヒヨドリの飛翔を写したからといって、 特に用途がある写真になることは、 まぁ 期待できないのだが...
そして、 方法としては、 ヒヨドリでなくても 何でも良いのだが...
スキルを向上させる 地味な行動の積み重ねが、 写せるものを広げて、 その先の未来に成果を得られる可能性に繋がっていく。

もちろん、 自然物の鳥で 優れた写真を撮れるには、 自身の能力ではコントロールできない部分での幸運も 必要。
でも、 羨まれるような写真を たくさん撮れる人は、 ただ幸運だっただけではない“裏付け”があるからこそ できているもの。
ありがちな、 ファインダーも覗かずに でたらめに連写し続けては ご自慢を垂れている面々と混同するのは、 滑稽な取り違い。
ありがちな、 自身が努力もしていないことにも気付けずに 妬むのは、 愚かな筋違い。
ありがちな、 必要なスキル(知識や技術)がなければ 同じようには写せないだけなのに、
「この世界の何処かに、 そこで写しさえすれば優れた写真になる 特別な場所があることを、 私は ちゃんとわかっている」
「その特別な場所に行きさえすれば、 私にも 優れた写真が撮れることを、 私は ちゃんとわかっている」
と 延々と尾行しては一斉に集結して来続ける 私欲丸出しさんネットワーク構成員は、 醜く そして お恥ずかしい思い違い。

優れた結果を得るには 地味な積み重ねが必要なのは、 どんな分野でも 同じ。
優れた“才能”がある人は、 それを得るための努力をする“才能”での結果で、 結果的な“才能”は 自身の行動で得たもの。
だから、 一度でも“何か”を成せた人は、 全く違う分野に行っても、 経験を応用して 要所を的確に見定められたりする。
そして、 成功体験に沿って行動すれば、 当然に努力するので、 そこでも優れた“才能”を持てることも多い。
対して、 その“何か”が1つもないままの面々は、 どの分野に行っても、 何が優れていることなのか自体が わからないらしい。
そのため、 稚拙なことをできただけで 何でも、 優れていると評価されるものとの、
「○○(種類や行動)を写すことにも『成功』した」
「△△(地名)で写すことにも『成功』した」
のような、 優劣とは無関係な部分の共通を挙げられるだけで、 自身が 同じや それ以上に 優れていることにしてしまう。
そして、 優れているつもりでいる 稚拙すぎることだけに終始するばかりで、 自身を向上させる努力もしないし、できない。
小さな積み重ねは大切、でも、 誰でも最初からできることだけをしていても、 リアル世界で価値があるほどの向上は 望めない。

もう永らくの近代では、 “鳥が写っている写真”というだけなら、 鳥がいる方向に向けてシャッターを切れば 誰にでも写せる。
そして、 たいていの場合、 高価な機材を使いさえすれば より見栄えがする写真を得られる。
だから、 そこそこの結果なら、 努力するよりも 金で買おうとする方が 手っ取り早く、しかも 確実に手にできてしまう世界。
これは、 近代では、“とまり”だけでなく、 一般的に多く写されている飛翔写真でも同じ。
過去に遡れば、 鳥の飛翔写真というだけで 種類や状況が何でも そう容易ではなかった時代もあったが・・・
それは、 その時代を厚く体験して知っていても、 もう 忘却に霞んで 懐かしむのも難しくなっているような、 遥か遠い昔話。
そんな昔話を今に持ち込むのでは、 スマホの機能性を 黒電話と同じと言っているような、 滑稽で非常識なお噺。

もちろん、 初期費用さえかければ 誰にでも最初から写せるだけの写真で満足しても、 それぞれ自身での ご自由なこと。
その程度の写真でも、 現実では非常識すぎるお噺も真に受けてしまう門外漢に自慢すれば 得意げでいられるだろう。
あるいは、 稚拙すぎるご自慢だとわかっていても、 殆どは 社交上の儀礼でのお世辞で 表向きは体裁よく接してもらえるだろう。
そして、 格別に優れていることにして 和気あいあいと称え合っていられる 同類さん同士だけでの集いは 無数にある。
というか・・・
そういう集いでは、 リアル世界でなら稚拙すぎることでも 近くに実在されると 謳っている設定が成立しなくなる 不都合なこと。
だから、 誰でも最初からできるにすぎないほどものことをしたのでは、 そこに存在していない扱いになるかもしれないが x x x

でも、 リアル世界では、 どんな分野でも、 誰にでもできることを同じにやっただけで 優れていると評価されるはずはない。
鳥写真でなら、 誰でも 皆がそっくり同じに写せるだけの画は、 毎日毎日 全国で何万コマと 無限に再生産され続けている。
そういう類の写真は、 リアル世界の視点では 平易平凡な駄作にも満たない。

リアル世界で優れていると評価される人は、 その分野の全体の中での 他の大多数より優れている一部だけ。
当然、 すぐに 簡単になれるものでもなければ、 長い年月にわたって 本当に努力を続けたからといって 必ずなれるとは限らない。
そして、 いつでも多数が集う状況が全国の各所で無数に存在できるほど どこにでもたくさんいること自体が あり得るはずもない。

逆からは、 自身が より稚拙なら稚拙なほど、 同類さんが どこにでも たくさんいる。
だから、 “鳥の写真”を 和気あいあいと集える機会への参加証とだけ考えているのなら、 最初から目的を満たせる。
でも、 和気あいあいの集いなら、 他の分野ででも 無数にある。
ご機嫌よく集えれば 参加証の名目は 何でも構わない中で、 諸事情で?たまたま?ご都合が良かったから・・・
そういう嗜好での行動は、 “鳥の写真を撮っている人”とは、 本質的に 共通性も 類似性も 一切無い、 完全に無関係なこと。
それを、 表面的な一部に 文言では「鳥を写真に写す」と表せる共通があるだけしか見えずに混同するのは、 門外漢の思い違い。

あるいは、 極度に要約しすぎれば 「○○が写っている」と表せる共通さえあれば 何でも同じ価値があるのではない。
そういう類の思い違いの世界だけで暮らしていれば、 何でも すぐ簡単に達成感に浸れて、 いつまでも お幸せでいられるだろう。
が・・・
鳥写真への理解や スキルが ほんの少しでも向上するほど、 その世界の見え方は 累進的に大きく広がっていくことに気付くはず。
動的なシーンに対応する撮影技術的なスキルや、 狙うシーンを見つける 知識や観察力のスキルも、 その要素の1つになる。
でも、 そういう部分は、 まだ見えるようになれていなければ、 目の前に存在していても 気付くこともできない世界。
だから、 ほんの初歩すらできないままの面々ほど、 あべこべな、 鳥写真の全てを極めたつもりの優越感に浸っていられるのだが。

鳥を写そうとすることを長く続けていれば、 いつかは、そして 度々、 決定的なチャンスを与えられることがあるもの。
実態のないご自慢を称え合ってお幸せでいるだけの幻想世界でのお噺ではない、 リアル世界で優れた評価を得られる1枚・・・
その「さぁ、どうぞ」と差し出された 幸運なプレゼントを、 有難く受け取れるのか、 お断りして無駄にし続けるのか。
・・・というより、 お望み通りのプレゼントが見えずに 気付けないまま 通りすぎ続けている自身を 自画自賛し続けるのか。
それは、 空想だけでの願望ではない、 自身がリアル世界で行動してきた実態が 大きく左右する、 半ば 必然的な結果だろう。

リアル世界(現実世界)に ちゃんと実在している本来の情景のままを写した、 “人の勝手な嗜好に合うように状況を作為的に改変して創作された虚構”のない 絶対非演出スナップです。

野鳥写真:大空を自在に翔ける飛翔写真 = 鳥の行動で「最も鳥らしい特徴が表れた魅力」とも言える 飛ぶ姿を中心に、 カワセミ(翡翠),オオタカなど猛禽類(鷹)といった“人気の種類”には限らず、 バードウォッチングで“ものさし鳥”にも使われる普通種まで 幅広く。
多くは ネイチャーフォト系や動物写真系のフォトコンテストでの入選・入賞が出ている場所でのものでもあります。 (撮影地は記載しません)
他に、 昆虫写真や ネコ写真(野良ねこ写真)、 航空機 など...